AJAXのエースにして司令塔。そしてスーパーストライカー。
「フライング(空飛ぶ)・ダッチマン(オランダ人)」と言われ、軽快に軽やかにプレーする姿は味方だけでなく敵も見ほれるほど。
プレーは真似をされ、そして真似をした選手が確実に輝いた背番号「14」
同時期のドイツのスーパーリベロ、ベッケンバウアーと比較され尚且つ一歩引いた位置に甘んじた選手時代。
結局オランダという国でのワールドカップ成績は74年準優勝が一番上の成績。
しかし、AJAXではUEFAチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)を三連覇するなど、輝かしい成績を収めた70年代の欧州をベッケンバウアーと二分した実力を誇っていた。
なによりも「クライフ・ターン」と言われるボールを巧みに操って抜く技術は素晴らしかった。
20世紀としても、上から数えた方が良い位の名選手。
選手生活はAJAXで10年、バルセロナで5年。そこからUSのロサンゼルス、ワシントンと行き、スペインのレバンテ。ワシントンへ戻りAJAXで2年。最後のキャリアはフェイエノールトで終える。(しかも最後も11得点取っていた)
引退後は指導者としてのキャリアは古巣AJAXを率いて始まるのだが、最初は監督のライセンスが無く講習を受けつつだったのがいかに急だったのかが判る。
そのときに、チームを下部組織から全て戦術やシステムを統一して育てるというやりかたを始める。(これはAJAXでクライフが始めるまでサッカーには無かったやり方で、米国のメジャーやアメフトに学んだらしい)
そこではリーグ優勝は出来なかったが、1987年UEFAチャンピオンズカップでは見事優勝した。
その後バルセロナに行くのだけど、おいらが「惚れ込んだ」のはまさにこの時期のこと。
クライフは前年崩壊したバルセロナを一から作り直し、AJAXで始めた下部組織からの一環教育システムを貫いて、88-89年のUEFAカップウイナーズカップで優勝という結果を残し始める。
そして、おいらが大好きなチームができはじめる。
ミカエル・ラウドルップ、ロナルド・クーマンが加入して軸ができはじめ、翌年
フェレール、ゴイコチェア、ストイチコフ。そして下部組織から上がってきた「クライフの後継者」「ペップ」グアルディオラが入ると、自身が病に倒れつつも優勝。
翌年の91-92シーズン。
レアルとの優勝争いに勝利し二連覇。そして、UEFAチャンピオンズカップも、クーマンのフリーキックで1-0勝利。
これがバルセロナとしてのチャンピオンズカップ初勝利となる。
FC Barcelona ● 1991/92 European Champions Cup
(3:15秒ほどからがそのクーマンのフリーキック)
96年に解任されるまでの8シーズンでリーグ四連覇、コパデルレイ1回、スーペルコパ3回。
そして、チャンピオンズカップ1回、ウィナーズカップ1回優勝という輝かしい記録を作る。
その後、オランダ代表監督の話などがいつも出るも決まるまではいかず、結局その後はスポーツ活動の支援としてキャリアを進めていた。
教え子である、ペップ、グアルディオラは選手監督して結果を出し、同じく教え子であるライカールトも選手監督として輝かしい実績を積んでいた。
監督としては「4-3-3」のシステムを確立し、自身が中心でオランダを躍進させた「トータルフットボール」とはまた違う攻撃サッカーを貫いた。
そしてそのシステムは今現在のバルセロナ、AJAXにも息づいている。
「あらゆる欠点には長所がある」
「我々がボールをキープし続けていれば、相手は永遠に得点することはできない」
「相手が何点取ろうが、それより多くの得点を取れば問題はない」
彼が居なければ現代サッカーはなく、彼が居なければ今のヨーロッパのサッカーはない。
大好きでした。
お疲れ様でした。